聖書実践のための貯金ゼロ生活

神と富とに兼ね仕えることはできない。

マタイによる福音書6より

初めまして。

神への信仰に目覚めたとある徒です。

 

いきなりですが・・

昨今、貯蓄するっていうのはもう何の疑いも持たれてませんよね。

貯蓄する・・資産を形成する=富に仕えるということだと思うんですが、

 

「神と富とに兼ね仕えることはできない。」

とイエスが聖書にて明言されているわけなんですが、

もはや貯金は『して当たり前』になっている現代です。

 

明日生きられるかわからないんだから、何があるかもわからないんだから

備えておくのは当然じゃないか。

 

そう思われるのも無理はありません。

しかしそれは悪魔がそう思うように仕向けているが故です。

 

信仰するにあたり、いろんな教えがあります。

姦淫するなとか、盗むな殺すなとか、嘘をつくなとか。

もちろん全部大事ですが最も現代において重要な教え、

私たちが守るべき教えが『蓄えるな』だと思うわけです。

 

私はついぞ、蓄えている人でまともな信仰者を見たことがない。

蓄えなくとも生きられるし、適度にお金も与えられるし

遊ぶことも全然できます。

意識もしてなかった臨時給付が舞い込んだり、

親が突然お金をくれたり、なんか出してるものが売れたり。

 

それはもちろん、主が与えてくださるからです。

もはや他の教えは守らなくてもいい、というと聖書と違ってくるので

そこまでは言えませんが、教えに優先順序というものもないのでしょうが

私は最優先がこの『蓄えるな』という教えだと信じています。

 

でも、

あまりにも周りにも蓄えない人がいない。

蓄えてなくとも蓄えている人を尊敬している人ばかりです。

今は主を信仰していなくとも、蓄えない人には感じ取ることができると思うんですね。

それくらい『蓄えない』というのは強力です。

 

仕えるものがない状態でなければ、何かに仕えることはできません。

とにかく何か富なり資産なりを積むのは即座にやめた方がいいです。

浪費しろってことか?

っていうとまたこれも「節制」という聖書の教えと食い違いますので言えませんが、

でも積むくらいなら浪費した方がいいと思います。

そもそも収入がなければいつまでも浪費なんてできないですしね。

月収が余ってるならもっとギリギリに収入の少ない仕事をすれば、

自然と浪費もできないはずです。

 

というわけで、今後は『蓄えない人たち』を鼓舞するために

このブログを更新してまいりたいと思います。

 

我が父の御名があがめられますように。