聖書実践のための貯金ゼロ生活

神と富とに兼ね仕えることはできない。

神道や仏教はいいのに、『一神教』はなぜ怖く感じるの?

今の日本で、キリスト教を信仰してる、って言うと

ぶっちゃけなんか怪しいとか、あまり関わり合いにならないでおこう

って思うのではないかと思う。

 

でも、海外ではほとんどみんな宗教に入っている。

てか、日本でも仏教でお葬式するし

神社も腐るほどあるしみんな何かにつけて参っている。

 

なぜキリスト教とかイスラム教とかだと変な感じに思われるのかと言えば、

周りにあまりいないからっていうことが大きいのではないかと思う。

 

あと、もう一つは「一神教」の宗教は聖戦とかジハードとかなんか

そういうのですぐ戦うイメージがあるのかもしれない。

信じる神の違いによって互いに滅ぼし合う、みたいな過激なイメージっていうのが

根付いている可能性はある。

 

神社なら八百万の神で、なんか柔らかいイメージがある。

いろんなものに神さんがおるんやで。みたいなのは

互いに滅ぼし合ったり、飛行機でテロで突っ込んだりみたいなことには

至らない感じするよね。

 

仏教はどちらかというと、仏に至る道なので

自分自身の修行って感じが強い。自己修練的な。ヨガとかもそうかな。

だから仏教の人たちもテロとかにはならないっぽい雰囲気がある。

 

でも、ここには大きな勘違いがある、というか

イメージ操作が入っている。

 

一神教は過激でテロに繋がり、互いに戦争で滅ぼし合うような宗教思想だ、

っていうプロパガンダが行われてきたわけだ。

身近に信仰者がいないからこそ、そういう印象操作が簡単に効いてくる。

友達がキリスト教とかならそんな過激じゃないけどな・・って

疑問に思えるかもしれないけど、普通に日本で育ってきたら

周りにキリスト教イスラム教もいないはず。

だからこそ、テレビとか新聞でなんかテロとか戦争とかっていうのを

みていると一神教の人たちって怖い・・・って思わされやすいのね。

 

キリスト教っていうのは別に過激なわけではないし、

ごくごく優しいもんです。

過激なことをしているのは、キリスト教を貶めたい人たちの印象操作

だったりするわけですね。

 

狂信者みたいなのはどんな宗教でもやばいんですよ。

オウム真理教はもともとヨガの思想ですよ。それがあんなことをした。

仏教の坊さんたちは昔、兵士(僧兵)として暴れまわっていたんだよね。

宗教というもの自体が怖いものではなく、

その中の一部の変な人たちが怖いっていうふうに捉えてみれば

プロパガンダに左右されることも少なくなると思う。

 

そしてちゃんと中立な芽を持ってキリスト教というものを見つめ直せる。

で、そういう過程を経て僕はこの世に信じられるものはキリスト教しかない

と信じるに至ったわけ。

 

それに関しては長くなるので、また次回以降に少しずつお伝えしていきたい。

ではまた次回の投稿で。

マタイによる福音書6より

初めまして。

神への信仰に目覚めたとある徒です。

 

いきなりですが・・

昨今、貯蓄するっていうのはもう何の疑いも持たれてませんよね。

貯蓄する・・資産を形成する=富に仕えるということだと思うんですが、

 

「神と富とに兼ね仕えることはできない。」

とイエスが聖書にて明言されているわけなんですが、

もはや貯金は『して当たり前』になっている現代です。

 

明日生きられるかわからないんだから、何があるかもわからないんだから

備えておくのは当然じゃないか。

 

そう思われるのも無理はありません。

しかしそれは悪魔がそう思うように仕向けているが故です。

 

信仰するにあたり、いろんな教えがあります。

姦淫するなとか、盗むな殺すなとか、嘘をつくなとか。

もちろん全部大事ですが最も現代において重要な教え、

私たちが守るべき教えが『蓄えるな』だと思うわけです。

 

私はついぞ、蓄えている人でまともな信仰者を見たことがない。

蓄えなくとも生きられるし、適度にお金も与えられるし

遊ぶことも全然できます。

意識もしてなかった臨時給付が舞い込んだり、

親が突然お金をくれたり、なんか出してるものが売れたり。

 

それはもちろん、主が与えてくださるからです。

もはや他の教えは守らなくてもいい、というと聖書と違ってくるので

そこまでは言えませんが、教えに優先順序というものもないのでしょうが

私は最優先がこの『蓄えるな』という教えだと信じています。

 

でも、

あまりにも周りにも蓄えない人がいない。

蓄えてなくとも蓄えている人を尊敬している人ばかりです。

今は主を信仰していなくとも、蓄えない人には感じ取ることができると思うんですね。

それくらい『蓄えない』というのは強力です。

 

仕えるものがない状態でなければ、何かに仕えることはできません。

とにかく何か富なり資産なりを積むのは即座にやめた方がいいです。

浪費しろってことか?

っていうとまたこれも「節制」という聖書の教えと食い違いますので言えませんが、

でも積むくらいなら浪費した方がいいと思います。

そもそも収入がなければいつまでも浪費なんてできないですしね。

月収が余ってるならもっとギリギリに収入の少ない仕事をすれば、

自然と浪費もできないはずです。

 

というわけで、今後は『蓄えない人たち』を鼓舞するために

このブログを更新してまいりたいと思います。

 

我が父の御名があがめられますように。